2022/10/30

地に足をつけるものと

日本に帰国してから、活字に飢えていたのか、色々と読みあさっている。

日本の携帯番号を復活させたら、雑誌読み放題の特典がついてきたので、

雑多な雑誌から、文庫本まで。仕事関連の本も。


別に日米や世界情勢に詳しいわけではないが、アメリカにいると、民主主義国家の限界を感じずにはいられなかった。そんなわけで、今後の民主主義がどうなるのか、国はどうあるのが良いのかな...

「22世紀の民主主義」「文明が衰亡するとき」という2冊を読んでみた。

「22世紀の民主主義」は成田悠輔氏という、今注目されている若手研究者の本。

ネット時代だからこそ、そして学歴・権威崇拝の強い日本だからこそ出てきた研究者。

いわゆる本当に頭の良い人なのだが、情に薄くザッカーバーグやイーロンマスク氏と同じ匂いを感じる。そんな人が民主主義の限界について解く。

民主主義のリスクとしての衆愚政治を、情弱(情報弱者)とか、過激な言葉を使って書いている。政治はアルゴリズムになれば、今よりはましになるというのが主張。読み物としては面白かったが、現実味はどこまであるだろうか。グローバル経済の中で、経済が最も重要とされる世界の中で、アルゴリズムが「日本はアメリカに併合された方がうまくいく」と結論にいたったときに、そうですかと受け入れられるのだろうか。

すでに円の限界から、環太平洋(韓国、オーストリアなど)と結んで、EUと同じような通貨単位を作った方が良いという動きもあるようだが、国という単位は合目的な理由だけでは動いていない複雑形であることを考えると、アルゴリズムだけで国家がうまくいくようにも思えない。

その辺りのことも著者はわかっておられるようで、人間の本質的な弱さとどう向き合っていくのか、それをなしに理想の民主主義を描いても行先は暗いと。

かくもおろかで、はかなき人類。


「文明が衰亡するとき」は高坂正堯氏の本。読み応えがあった。

資源を持たない通称国家として、日本の身の振り方をベネチアと比較している。なぜベネチアが長期に渡って繁栄を続けてこれたのか。そしてそんなベネチアもなぜ滅びたのか。そしてアメリカという国の衰亡と今後について。

一部抜粋

「ローマの衰亡において、ローマのエリートの思想が進歩的楽天観から、禁欲的厭世観と変わっていった」

「通称国家は他人に依存している存在であるだけに脆弱性を持っている」

「(衰亡に際して)ヴェネツィアは変化を恐れず変化についていく能力の衰えを示すようになった」

「(アメリカにおいて)自信に満ちた秀才エリートが使命感を持つとき、それは教条主義となるやすい」


著者によると、ヴェネツィア、日本のような資源の乏しい国は地に足がついていない国の代表である。自国だけで完結できる産業がない以上、地に足がつけられない。だからこそ、臨機応変であることが生き残る道だということなのだが、個人でも組織でも国でも、成功体験は変化を嫌う方向に働く。その結果結局は柔軟性が失われていく。

常に危機感を持ち続けることの難しさ。


衰亡論や民主主義の破綻といったややネガティブなタイトルや思想は、それ自体が危機感を維持する仕掛けでもある。と同時に厭世感を生むリスクもある。そうした厭世観は衰亡を助長する。危機を乗り越えようとする体力が組織や国家に備わっているか。

エリートと呼ばれる国を動かしていく人々がその舵取りをうまくしていくことができるか。人間の寿命やフルに働く年数が短く有限である以上、そういった人が継続して出現し、かつ活躍できる土台、体力、そういったものを作るにはどうすれば良いのか、

別に国家を対象に考えるわけではないが、自分の所属する組織において、どのようにしていくのが良いのかを考えてしまう。


地に足がついていないものならではの生き方の模索。


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日本に帰ってきて、ニュースでやたら「丁寧な」という言葉が連発されていることに驚いた。「丁寧な対応」「丁寧な説明」。なんでも丁寧を付けたらやわらかくなり受け入れやすくなるという印象からそうしているのだろうか。

いかにも日本らしいなぁと思う。そもそも丁寧なという言葉の適切な訳が見当たらない。Carefully?