2021/10/19

日本の雑然さ、アメリカの汚さ

 別に比較文化論に詳しいわけではない。


日本に一時帰国して、1年間のブランクから日本という国の住環境について

驚くことばかりである。

日本というより、これは他のアジア諸国にも当てはまることなので、

東洋と西洋との違いとでも言った方が良いとも思う。

(じゃあインドや中東はどうなるんだという議論のあるだろうが、

そこは混在もしくはもう1つの独立した文化であろうか。またラテンアメリカやアフリカは

また異なるだろうから一概に2つの文化だけを対比するのはそもそも間違っている気もするが、

私自身がアメリカ、ヨーロッパとアジア、中国、韓国、台湾、インドネシアあたりしか

行ったことがないもので、とりあえずこの2つの諸国の対比する。)


アメリカに渡った時、(ボストンはまだ綺麗な都市だと思うのだが)、汚いなぁと思った。

例えば地下鉄の列車が泥だらけだったりする。すべてのものは重く(ドアや家具)、

大きい。アメリカの第一印象はspaciousだった。そして、この国には整理整頓という概念

は存在しないのか!と思うことが多々あった。

しかし今回日本に帰ってきて、日本の雑然さ、「整っていない」ことに

びっくりした。1つ1つのお店などの綺麗さで言えば、日本の方が綺麗だろう。

しかし街全体で見ると、雑然としているのだ。

雑居ビルという形態はアジアの諸国ではあっても、アメリカではない。

じゃあアメリカは大陸だから、土地が有り余っているからそうなのだ広く整って見えるのだ

とも思ったが、中国は大陸であり、土地はたくさんありそうなものだが、やはり雑然さは

残っている。特に旧市街と呼ばれる場所、グローバリゼーションや資金の流入がなく、

gentrificationを受けていない場所での違いが顕著である。


この違いは何からきているのだろうか?

様式美を追求する西洋と、機能性を追求する東洋なのか。

1つ1つの街にあるもの、例えばポスターや店の案内など1つをとっても、

そのデザインや客への訴え方に、文化の違いを感じてしまう。

どちらが良い、悪いというわけではなく、新しい(本当はもう馴染んだ文化なはずなのに)

ものに触れた時の驚きと困惑を、文化圏が映る旅に感じてしまうのだ。


「この違い」という曖昧な表現をもっと具体的にしていこう。

まずサイズが違う。例えばスターバックスというどちらの国にもありふれた店舗であった

としても、客同士の距離が違うのだ。薄いパーティションを挟んで、膝がつくのではないか

という距離に席が設けてあるのが日本、アジア。

どんな狭いスターバックスでも距離があり、(むしろ距離をとれないのであれば席はない)

席を詰め込もうとしないのがアメリカ。

例えば1km2の土地に10人程度の人を入植させて、自由に街を作らせたとしたら、

日本とアメリカでは、全く異なる街ができるだろう。日本では初めの10人は100m2程度の土地

に寄せ集まって住み、そこから周りを開拓し、そして人が増えたらそこから拠点として

土地を割り当てて街を作っていく。(多分)

それに対して、アメリカは一人一人が10000m2の土地を割り当てられ、その土地をそれぞれが

区画する。人が増えたらそれは10 + aでまた再分配するのではなく、10人の一人一人が

その中での人の増減を調整する。(たぶん)

その結果としてできる街の形式は全く異なるものになっていく。


今細胞のサイズに関する本を読んでいるが、

そもそもアジアにおいては、人の家(cell)のサイズが小さい方が生存がしやすい、

そんな選択圧があったのではないかと思うくらいに、1つ1つの家は小さく、

集合して住むことを好む。

これは土地が少ないせいばかりではない。土地が有り余っていたとしても、そういう住み方

をするのだ。なぜか? 農耕民族の名残なのか、

そんな100万年も昔の生活様式によって、現在の都市文化が影響を受けているとも

思えないのだが、街の雑然さの違いはアジアと北米では歴然としている。

なぜだろうか?

そしてそれは物事への捉えかたや考え方にどのような影響をもたらしているのか。