庭先の花たち。
生物学者の福岡先生が、
という本を書いておられて、アメリカにきた時にボスから「これ読んどいて」と渡された。
2日くらいで読み切れるとても面白い本だった。ボスは研究を始めるにあたって、
後半に出てくる研究捏造の事件を心に刻んでほしかったかもしれないのだが、
私にとっては、このタイトルにもなっている「分けてもわからない」という
ところに、この半年取り憑かれている。というか、アメリカにくる前からぐずぐずと
考えているのに、一行に答えは見つからない。
有機体ネットワークとしての細胞のあり方をとらえるのに、論理思考(A => Bを証明する)
の限界?いや、論理思考がよくないわけではなく、分子レベルでシグナルを1つ1つ
とらえるのが間違っているのか、シグナル伝達に限界があるのか...
福岡先生の次に書いている、動的平衡にあるのか、でもそうだとしても、
概念レベルで止まっていては、先に進めないし、じゃあ動的平衡だったとして、
疾患が治せるのかというとまたそれは別の問題だ。
昨日読んだThe Economistに心理学の話が載っていた。
人は何かを解決しようとするときに、「足す」方向に考える傾向がある。
「引く」ことは苦手なのだと。何かを「足す」ことは自分が介入した証であり、
何かを解決できたという満足感につながるからだろうか。
で、これが生まれ持った性質なのか、後天的なものなのかを探ろうとしているらしい。
心理学ではなく、生物の進化や危機への対応方法でもこれはあてはまるのではないか。
non cording RNAやイントロンなど、パッとしたところの機能はよく
わかっていないものは多々ある。ホモサピエンスと他の猿人類の遺伝子の相違はわずか
だというが、もう使われなくなった(進化の過程で足された)遺伝子を
多数引きずって進化しているからこそ、相対的に相違がわずかなのではないか。
進化が外部からの危機によって強化されるとしたら、
感染やその他の外部からの刺激によって起こる疾患でも同じことが言えるだろう。
危機に対応しようとして、細胞は何かを足そうとする。それが良いかどうか、
保護的に働くのかどうかは誰にもわからない。
ダメだったら生存できないだけだ。
細胞レベルで同じことが起きているとして、足せばいいのか、引けばいいのか、
分子のあるなしではなく、数として、量としての影響はどのように考えるか。
それには新しい解析方法なり、仕組みが必要なのかもしれない。
なんてことを考えながら、毎日やっていることは地味の一言に尽きる。